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Buscapé創業者インタビュー:ブラジルスタートアップの最大の成功事例 Part 3: Buscapé誕生

日本でも海外のスタートアップの記事を目にすることも多いですが、日本では情報が少ないブラジルの起業家の様子を探るべく、ブラジルベンチャーキャピタルが独占インタビューでブラジルの起業家に迫ります。

ブラジルのスタートアップ最大の成功事例と言われるBuscapé(ブスカペ)の創業者、Romero Rodrigues(ホメロ・ホドリゲス)氏へのロングインタビュー、part 3です。

 

投資ファンドからの出資

当時、ブラジルのEコマースは、1998年にはホスト数で世界第19位、南米では第1位、アメリカ大陸では、米国とカナダに次ぐ第3位であり、大きく成長していた。1999年後半には、多くの人々がプロジェクトを立ち上げ、インターネットでひと儲けようとしていた。

その中で、ブスカペの成長も著しかった。

「当時ブスカペはまだまだ未成熟だったが、多くの人々がEコマースを始めようと世の中のトレンドが動いていたタイミングでブスカペが急成長を続けていたため、多くの投資家がコンタクトをとってきました。両親ですら私が何をしていたか理解していませんでしたが、突然、メディアがインターネットを盛んに取り上げられるようになり、ンターネットは単なるツールではなく、ライフスタイルに影響を与えるような大きなものになってきたのです。」

そこから、ブスカペは経済誌EXAME(ブラジルで最も有名な経済紙)はもちろん、ゴシップ系の週刊詩にまで取り上げられるようになっていた。

「最初にメディアに取り上げられてから、約4か月はとても順調に進んでいました。」

しかし、皆が満足していたわけではなかった。ある大手小売店からは価格情報の掲載を辞めないと訴訟する、と脅されてこともあった。まだインターネット上で勝手に競合他社と価格を比較されることを不満に思われていました。

「皆でどう対応するか、この小売店の価格情報を削除すべきか検討しましたが、結局しばらくはそのまま掲載しておくことにしました。実際ブスカペはまだきちんとした会社組織だったわけでもなく、特に資産もなかったので、そもそも相手が訴える先がない上、訴えられても困ることは大してないという判断をしたのです。」

ブスカペのサイトを立ち上げてから、メディアと並行して7件の投資のプロポーザルを受けていた。大学のインキュベーターから大手の投資銀行まで様々な投資家がアプローチをしてきていた。

対応方法についてアドバイスを得るために、当時マッキンゼーで経営コンサルタントとして働いていた、大学の同級生の兄とコンタクトをとった。メンターとして投資を受けるためのサポートしてもらいたいと話していた。

「彼は最初の会話の中で沢山アドバイスをくれました。その後、週末考えた後に、私たちのプロジェクトにメンターとしてかかわっても良いという連絡をもらえました。」彼とのコンタクトは予想よりも遥かにうまくいき、彼はブスカペのプロジェクトを大変気に入って各投資家対応をサポートすることになる。

また、彼はマッキンゼーを退職し、友人とともにE-Platformというインキューべーたーを立ち上げ、最初の案件としてブスカペへ10万ドルの投資をした。

「当時の私たちは事業計画書なんてどうやって作るのか、全く分かっていませんでした。彼がメンターとして所謂「マッキンゼースタイル」のしっかりしとした事業計画のプレゼンテーションを作ってくれました。」

2000年2月、ブスカペはこの事業計画書をもって初めてロードショーを行ったところ、いくつかのファンドからプロポーザルを得ることができた。その中で、同年3月にはブラジルの最大手の銀行であるウニバンコとメリルリンチと契約を結ぶことに内定した。

この間、インターネット関連企業が参加するアメリカのナスダック総合指数が一時5000ポイントを超えるなど、前年同月の倍以上となる異常な高潮が見られていたが、この交渉中の2000年3月にアメリカでインターネットバブルが崩壊してしまう。ホメロ達は、ウニバンコとメリルリンチがこの市場の状況から投資を断念してしまうことを恐れたが、最終的には両社とも予定通りを契約を進め、同年6月にこれらの企業と6百万ドルの投資契約を結ぶことができた。

ブスカペが市場の逆風の中契約締結に至った要因はなんだったのか?

それは、ホメロの判断で当初の予定よりも早いタイミングでサイトを立ち上げたことが奏功し、ブスカペが1999年にオープンしていて、すでに他のインターネット事業に比べて大きな存在感を示していたことにあるだろう。1999年末の時点で150店以上の価格情報を掲載し、2000年には月間利用者数が3万人を超えていた。当時にしては、この数字は素晴らしいものであった。

ちなみにその3年後の2003年にはブスカペの月間利用者数は3千万人の大台に乗った。「当初の事業計画では、最も楽観的な見立てですら、2003年の月間利用者数は70万人に過ぎなかった。」控え目な数値目標しかなかったこのサイトは大成功を収めたのだった。

当時苦戦しながらも生き残ったサービスの多くはバブルが最高潮だったとみられている1999年の秋口よりも前にオープンしているものが多かった。ホメロ曰く、「私たちのようにバブルの前に始めた企業は、バブルなど予想すらしていませんでした。98年や99年の初めには、ブラジルではベンチャー企業が何であるかも知らなかったのです。」

当時ブラジルで起業をするためにお金を借りようとするならば、連邦貯蓄銀行にいって、家や車を担保にしなくてはならず、利子もとても高かった。「借入の際に担保にできるものもありませんでした。」と言う。IT企業は小資本でスタートできるものの、借り入れなどのリスクをとりつつ無理に背伸びをした経営ができる環境ではなかったので、バブルの崩壊があっても大きな財務上の負担なく事業を継続できたのである。

 

資金の賢い使い方

資金が集まった後、よりしっかりとした組織とするために事務所を立ち上げることとなったが、この当時ホメロが得た最も重要な助言は、「不必要なものに資金を投入するな」というものであった。4人は投資を受けたうちの50万ドルで、マーケティングとスタッフ20人の雇用に充てることにした。

E-Platformの事務室の隣に100㎡のオフィススペースを借りた。可能な限り節約に励んでいたので、本来なら一台800レアルほどの机を購入する代わりに、二台の画架の上に扉を置いて机にした。ブスカペが消費者に対して、購入前に価格を調べるという、節度ある消費行動を形作るのに貢献しているのであれば、当然企業内でも同じ哲学を持たなければならないだろう。「私たちは、自分たちの考えを投影するような、小さな店舗のようなものを作っていたのかもしれません。」

その後もブスカペは順調に成長していった。2000年初め、ブスカペは創業者チームの4人とインターン生1人であったが、同年の終わりには従業員は35人に、2005年には150人に達した。2006年にはBomdfaro社を買収し、従業員は350人になった。現在は、1500人の従業員を抱え、年間売上高は250百万ドルに上る。

ホメロは、ウニバンコとメリルリンチからの投資がなければ、ブスカペは単なる夢想的なアイディアに過ぎなかったと言う。確かに、1999年6月にサイトを立ち上げてから、毎晩寝る暇を惜しんで全員が働いていたが、売上高が損益分岐点を超えるまで3年の年月がかかったことを考えると、この見方は正しいだろう。

ただ、投資により単純にお金があっただけではなく、事業の収益化に向けての大きな後押しとなったのは2001年末の予算承認された会議にあった。

当初、ブスカペの事業計画では、赤字状態にも拘わらず(特に2001年の赤字は深刻だった)、2003年に実現可能と予想していた黒字達成まで、資金を使い続けることになっていた。しかし、そこで役員の一人から目を覚まさせる言葉を投げかけられることになる。

「役員会で、投資家でもある一人の役員が、自分の投資先について話し始めたのです。『自分のポートフォリオの中には3つのグループがある。一つは資金が尽きて潰れたグループ、一つは資金がなくなりそうで、近い将来潰れるグループ、そしてもう一つはブスカペのようにまだ資金があるグループだ』と発言したのです。」

初めはブスカペの賞賛のようにも聞こえたが、真意はそうではなく、「『ブスカペもこのままでは資金がなくなる可能性が高い。まだ資金があるうちに会社を清算して、残資産を株主で分配すべきだ』という意見だったのです。もちろんそんな提案は受け入れられませんでしたが、これまでの事業計画通りに資金を使い続けることも承認されるわけがなく、会議の場で大きな約束をさせられることになりました。」


Romero_headshotRomero Rodrigues – ホメロ・ホドリゲス:

ホメロ・ホドリゲス氏はサンパウロ生まれのブラジル人企業家。小さいころから探求心が旺盛で、機械工学部卒の父を模範に育つ。最初の事業はティーンネージャーの頃に始めたパンフレットの印刷事業。大学生の時に、情報科学とプログラミングに熱中し、起業を決意する。在学中にブラジルのインターネット業界で最も大きな成功事例となるブスカペを設立し、2015年まで同社のCEOを務める。現在39歳になる彼はブラジルのベンチャーキャピタルのレッドポイント社の共同経営者である。

 


Buscapé – ブスカペ:
ブスカペはブラジル初の価格比較サイトとして、1998年にホメロ・ホドリゲス、ホナルド・タカハシ、ホドリゴ・ボルジェスによって設立された。(後に、マリオ・ラテリエも参画)今日、同社はブラジルの他、米国、アルゼンチン、コロンビア、チリ、スペイン、メキシコ、その他ラテンアメリカの15か国において事業を展開している。サイトの月間アクセス数は3000万、設立時に30点であった取り扱い商品は今日では1100万点を超え、価格比較の他に、電子商取引、ポイントサービス、消費者へのクーポンサービス、ペイメントサービス等を提供している。2009年には、南アフリカのNaspersグループに対し3.4億ドルで株式の91%を売却した、ブラジルのベンチャー企業最大の成功事例である。