エディガル・ディニズ

in ブラジルの起業家

Esporte Interativo創業者インタビュー:スポーツビジネス界の風雲児Part 1:スポーツ業界での起業を目指して

ブラジル・ベンチャー・キャピタルの起業家インタビューシリーズ。

第四回はブラジルスポーツビジネスに風穴を開け、スポーツビジネスの近代化への流れを作ったエディガル・ディニズ(Edgar Diniz)氏。

新規参入の難しいメディア・コンテンツ業界にいくつもの新たなビジネス機会を創出し収益化を果たした後、米タイムワーナーグループのターナー社へ売却。

創業から売却までは決して順風満帆ではないながらも、一貫してスポーツビジネスを志した起業家の物語です。

 

エディガル・ディニズ

Edgar Diniz of Esporte Interativo

エディガル・ディニズ(Edgar Diniz):
エディガル・ディニズは常に起業家を志していた。また、スポーツ関係で仕事をすることも目指していた。
90年代前半に投資銀行に勤務して経験を積む中で、自分たちの価値をうまくアピールできないプロスポーツ選手とスポーツをマーケティングのために十分に活用できてない企業をつなげることに可能性を見出す。
エディガルは29歳で「エスポルチ・インテラチーヴォ」社を創業。エスポルチ社をアメリカのターナー社へ売却後、現在は次の起業に向けて準備を進めている。

 

エスポルチ・インテラチーヴォ(Esporte Interativo):
エスポルチ・インテラチーヴォはインターネットが重要なコンテンツ配信ツールとなる前の1999年にトップ・スポーツ(Top Sport)として設立。当時ブラジルで放送されていなかった海外スポーツコンテンツの放映を開始。民放放送から始まり、有料ケーブルテレビと提携先を拡大した。2013年には財務強化の為、アメリアのターナー・ブロードキャスティング・システム (タイム・ワーナー社)と資本提携。2015年にはターナーの100%子会社となる。現在も民放放送、有料ケーブルテレビ、インターネット等、様々なチャネルでコンテンツ配信している。

 

スポーツとビジネスを融合するには?

私は子供の頃からスポーツが大好きでした。

私の子供時代は、ブラジルにはインターネットはもちろん、有料チャンネル自体がありませんでした。

民放放送のスポーツ番組を見ながら、スタジオや体育館などに足を運び、同じ年代の子と同じ様に、サッカー選手になることを夢見ていました。バレーボールに真剣に取り組んでいた時期がありましたが、すぐにプロになる為の才能や背の高さが足りないことに気付きました。

私の父は会社役員で、母は心理カウンセラーとして働いており、両親は自分の夢に向かってがんばるようにいつも応援してくれました。

例えば、スポーツに真剣に取り組んで練習をする姿勢も両親の支えによって培われたと思います。

しかし、家族の中で起業家はいませんでしたし、幼少期に起業家から直接影響を受けたことはありませんでした。

高校生活が終わりにさしかかりもう少しで大学という時期からスポーツに関わる仕事に就きたいと考え始めました。また、自分自身でビジネスを作るということにも興味を持ち始めた。ただ、まだその頃はどうやってその二つのピースを組み立てるのかが分かっていませんでした。

1989年に経済学の大学に通い始めた時の私の日課はバレーボール講師、バレーチームのコーチ助手として働くことでした。バレーチームと学生の二重生活を約1年間続ける中で、スポーツに関するビジネスで起業しようと思い立ちます。

最初に思い描いたビジネスはスポーツ選手達がスポンサーを見つけサポートを考えていました。自分の中では上手くかみ合っていない分野が二つ見えていました。一つは、スポンサーに対して、自分たちがどれ程価値があるのかを売り込む術をしらないプロスポーツ選手達。二つ目は、スポーツをマーケティングとして上手く活用できていないスポンサー企業達。

この二つにビジネスチャンスを見出し、市場調査を始めました。当時はスポーツマーケティングという言葉すら存在しませんでしたが、最初に考えたのはスポーツマーケティングの代理人でした。しかし、これは設立どころか、興味を持ってくれる会社すら見つかりませんでした。

今のスポーツ市場もまだまだ未成熟ですが、その当時は今以上に業界全体が素人集団で、ビジネスとは言えない汚いやり方がはびこっていました。

結果的に、もっとビジネスについての知識を得ることと、起業のためのまとまったお金をためるために最初のキャリアは全くスポーツと関係のない選択肢を選びました。

当時ブラスカン銀行(Banco Brascan)という、創業者や役員も若い小企業でインターンシップを始めました。グローバル企業などの大企業に勤める気は一切なかったので、当時のブラスカンは自分にピッタリだと思い、インターン後もその銀行で働くことになります。

その後、偶然にも、私はスポーツ市場に関連した仕事をする最初のチャンスを得ることになります。ブラスカンのプロジェクトとして、株式公開に興味があるスポーツクラブを探していました。そこで、ブラジル最大のサッカーチームであるフラメンゴなどとビジネスについて踏み込んだ話をする機会を得ることができました。この経験から、スポーツクラブが企業としてどの様な仕組みで動くのかを、初めて理解することができたのです。

このプロジェクトは資本市場に必須な「透明性」がなかなか担保できないことから、前に進みませんでしたが、この経験をもとにさらにスポーツ市場でのチャンスを探り続けることにしました。

ブラスカンでのキャリアを続ける中で、少しずつ学習と成長を重ねて、投資銀行についての理解を深めていき、特に、ビジネスにおいての経済・財務のスキルの習得に力を入れました。

1995年には、ブラスカンから融資をしてもらい、アメリカ合衆国ペンシルバニア州のピッツバーグ大学のファイナンスの大学院に留学し、大学院修了後、1997年にサンパウロのパトリモ二オ銀行(Banco Patrimônio)からプロポーザルを頂き、M&A部門の責任者として勤めることになりました。

当時、起業を始めるのに必要な資金どころか、大学院に留学するための借金を背負っていたこともあり、経済的にも良い条件でしたのでパトリモニオ銀行のプロポーザルを承諾することにしたのです。自分が追い求めていたスポーツ市場にはまだ、直接結びつかない役割でしたが、それでも興味深いプロジェクトをいくつか行うことができました。

この当時、ブラジルサッカーを司る「ペレ法」(ポルトガル語:Lei Pelé)が成立し、プロのサッカークラブへの海外からの投資受け入れが可能となっていました。その時期、スポーツに関わらずブラジルには海外からの投資が入り始めていました。また、スポーツとメディアがビジネスチャンスを見出す中で大きな歩み寄り始めてもいました。

そこで私たちはバイーア州の伝統的なサッカークラブ、ヴィトリアに出資者を募るプロジェクトを始めました。

このプロジェクトを通じてスポーツ市場のビジネスモデルがをより明確に理解することができ、同時にブラジルスポーツに対する海外投資家の関心の高さを肌で感じていました。

そんな中、1998年の後半には、勤務していたパトリモニオがチェース(後のJPモルガン・チェース)、に買収されました。

その買収の直後に、チェースがブラジルの最大手のテレビ局であるグロボ・テレビからの依頼で、外部投資に対する防衛策を立案するプロジェクトをすることになりました。このプロジェクトではメディアビジネスについても深く理解する機会を得ました。

並行してチェースは大きな海外ファンドがブラジルの大手のサッカークラブであるコリンチアンス(サンパウロ州)やクルゼイロ(ミナス・ジェライス州)への投資ファンドを立ち上げるプロジェクトも始めていました。

このファンドの大きな目的の一つにはメディアを立ち上げることも含まれており、チェース内部で「プロジェクトに入って、スポーツについて学びたい人はいるか?」と聞かれ、「是非やりたいです!」と立候補し、プロジェクトにかかわることができました。最終的にこのプロジェクトでスポーツチャンネルの開設までやることができました。

最終的にはブラジルの法律が変わり、この海外ファンドの投資計画は失敗に終わり、彼らのブラジルでのメディアプロジェクトは頓挫してしまいましたが、このプロジェクトは私にとってスポーツ市場でメディアが果たす役割を内部から理解して知識を広げる大きな機会となりました。

またグロボのCEO達と関係構築も含めて様々なメディア業界の重要人物との信頼関係の作り方も学ぶことができました。これらは、その後に自分で起業することに向けて大きな前進になったと思います。

 

ビジネスパートナーとの出会い

事の始まりは不思議な偶然の重なりでした。ブラスカン銀行時代、同僚だったレオナルド・レンズ・セーザルもスポーツが好きで、私達はいつもビジネスチャンスについてディスカッションをしていました。

私が大学院を終えて帰国した時期、彼はボストンのバブソン大学院に留学をしていましたが、そこでカルロス・エンヒケ・モレイラと同級生として知り合ったのです。

奇遇なことに、私とカルロスはリオデジャネイロでサッカーを一緒にプレイした仲でした。こうして思いもよらない所から、私達ブラジル人3人が異国の地、アメリカで繋がったのです。

私とレオがビジネスチャンスについて頻繁に話し合っていた時期、1998年の半ば、カルロスは当時ブラジル代表とスポンサー契約を結んだばかりだったナイキ社のスポーツマーケティング部門に勤めていたこともあり、3人でのブレインストーミングの頻度が高くなっていったのです。

それから7~8ヶ月の間、週2回ペースでミーティングを繰り返しました。当時、私はサンパウロ、レオはボストン、そしてカルロスはオレゴンに住んでいましたが、ある年末にアスペンのスキー場で会う事になりました。それから1週間の間、スキーの後の4~5時間でこれまでに話し合ってきた内容の整理や、起業に向けて足並みを確認しあいました。

 

退職と同時に舞い込んだ最初のクライアント

1999年半ば、私は友人のレオナルド・レンズ、カルロス・エンヒケ・モレイラ等と一緒に起業することを決断しました。会社設立後の数ヶ月はクライアントがゼロだろうと予想していたので、それなりの準備をしていました。まず、1年間収益のない状況で会社にかかる出費がいくらになるかを計算をし、それを創業者の頭数の3で割り、その金額を各自が口座に用意していました。

当時、私は30手前で、現状に甘んじてはいけないという危機感もありました。裕福な生活を求めるがために自分のキャリアを妥協しないようにしたいと思っていました。プライベートでは、娘が生まれてくる時でしたので、周りからはなぜわざわざそんなリスクを冒すのかと問われましたが、「自分の夢の邪魔をさせる為に子供を作ったんじゃない」と自分に言い聞かせました。

一方で、失敗したとしても30歳前だし自分のこれまでのキャリアがあればすぐに仕事が見つかるという確信があったのもリスクを背負う覚悟が出来た大きな要因でした。

もちろん、これまでも常にリスクを好んで負ってきた性格もあるとは思いますが。

当初のビジネスアイデアはブラジルのサッカークラブに出資する投資ファンドの立ち上げでしたが、その時点ではファウンド立ち上げの為に必要な資金も能力も持っていなかったので代替案として、スポーツクラブの収益アップや経営のプロ化促進等のコンサルティング業を営むことにしました。具体的には、ビジネスについては素人同然のスポーツクラブ経営陣とブラジルに入り始めた海外投資達の関係が円滑に進む様にサポートすることでした。

決断後、当時の私の上司でもあったルイズ・チャリソストモに退職すると告げました。

最初は猛反対されましたし、退職なんて馬鹿げたことをするなと止められました。

しかし、意外なことに話を続けるうちに、「ヴィトリアのプロジェクトを君なしで続けるのは厳しい。君の起業する会社にプロジェクトを委託するのどうだろうか」と提案されました。その場で話がまとまり、退職後に設立した「トップスポーツベンチャー」社の最初のクライアントはチェースとなったのです。

「トップスポーツベンチャー」としてその後様々な成果をあげ、名前を「エスポルチ・インテラチーヴォ」と変えてアメリカの企業に売却することになるのですが設立当時はそのような将来を全く予期していませんでした。

チェースとほぼ同時期に2番目のクライアントとしてヴィトリア自体とも直接契約することができました。チェース勤務時代、グロボ・テレビのプロジェクトに参加していたことがきっかけとなり、ヴィトリアの会長のパウロ・カルネイロ氏に、チェースは退職したが委託という形でプロジェクトに関わり続けるという話をしました。

それから一週間後にカルネイロ氏から電話で直接、ヴィトリアのビジネス部門の業務を請け負ってもらえないだろうかとプロポーザルを頂きました。

結果、起業直後に二つのエリアで仕事を請け負うことになりました。一つはヴィトリアに出資者をつのるプロジェクトで、投資部門でキャリアを持つ私とレオが担当しました。もうひとつはヴィトリアのマーケティングのプロジェクトでカルロスがヴィトリアのチームがあるバイーア州サルバドールに引っ越し、受け持つことになりました。

当時のトップスポーツの収益はヴィトリアからの成果報酬だけでしたので、当初は赤字経営がしばらく続きました。ようやく最初の利益が出てきたのは1999年から2000年にかけて、グロボ・テレビと初めての契約を交わしたときです。ようやく安定した報酬が会社に入る様になり、なんとかブレークイーブンになり、その後は徐々に苦労が実を結び始めました。

2000年のはじめにはアルゼンチンのExxcel Group社がヴィトリアクラブに出資したことによって、ヴィトリアとの仕事の多くが終了しました。

 

最初の外部投資家 

チェース退職際に、元上司のルイズ・チャリソストモ氏に冗談交じりに

「これから6ヶ月間、毎月1回は君がおかしくなったわけじゃないことを確認したいから、一緒に食事をしてどんな事をしているのかを聞かせてくれ」

と言われました。

その後、実際に、毎月1回は一緒に食事に行っていたのですが、3・4回目くらいの食事の時に、彼の方から「資金が必要な時にいつでも言ってくれよ」と出資を申し出てくれました。私は即座に「それでは今すぐお願いします」と答えました。
私達は3人とも、収入のない時期が長く続くことを予想して資金の準備はしていたので、金銭面での心配はしていませんでしたが、お金そのものよりも、キャリアが長く、人脈も広いことが私たちと助けてくれると考えたのです。今振り返ってみても、この決断は後の会社発展のための本当に重要ないくつかの決断の一つだったと思います。

結果、チャリソストモ氏は当時の金額で10万ドル相当をリターンや返済等の条件を付けずに投資してくれて、私たちにとっての最初の投資家となりました。