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Movile創業者インタビュー:ブラジル発、世界一を目指すアプリ企業Part 1: Movile起業前夜

日本でも海外のスタートアップの記事を目にすることが増えてきましたが、アメリカ、特にシリコンバレーのスタートアップについてのものが中心です。

ブラジルでも起業家が増えており、成功事例として大きく成長したりExitするケースが増えてきています。
ブラジルでの起業家がゼロから事業を立ち上げて成功に至るまでの道のりを、ブラジルベンチャーキャピタルの独占インタビューで迫るインタビューシリーズ。

第二回はブラジルのモバイルスタートアップ最大のスタートアップでブラジルに限らずマルチナショナルな成功を収めているMovile(モビレ)の創業者Eduardo Henrique(エドゥアルド・エンリケ)氏のインタビューです。

 

Eduardo Henrique do Movile

Eduardo Lins Henrique

エドゥアルド・リンス・エンリケ:
コンピューターサイエンスとマーケティングのダブルメジャー。早期より携帯電話と広告の親和性の高さに着目し、1998年に大学在学中に起業。後に4社の統合を経てコングロマリット化した現Movileにて海外事業開拓の責任者を務める。
2012年から2017年までカリフォルニア州シリコンバレーでMovile米国オフィスを立上げた後、現在はマイアミに拠点を移し、ラテンアメリカとアメリカ市場をつなぐハブとしての役割を担う。

 

Movile:
PlayKids、iFood 、Apontador等、ブラジルで知らな人はいないメジャーな携帯アプリを提供。1998年に創業したが、現在のような形になったのは複数の企業の合併・買収を行った創業10年後のことである。直近8年間、年平均60%の成長を遂げ、推定年商は約300億円。フードデリバリーからチケット販売までを扱う同社のサービスの利用者は月間1億2千万人に達する。
ブラジル、アルゼンチン、コロンビア、メキシコ、ペルー、アメリカ、フランスの7カ国で展開し、目標は10億人以上のユーザーの生活にインパクトを与えること。
2017年には約55億円の出資を南アフリカの Naspersグループから受ける。バドワイザー、ハインツ、バーガーキング等の買収で知られるブラジル人著名事業家ジョルジ・パウロ・レマンの Innova Capitalファンドも主要株主として名を連ねる。

 

Movile社の起源-想定外の起業家人生スタート

私が起業したのは大学在学中でした。

当時の生活を振り返ってみる自分でも信じられないほど忙しい日々を送っていました。

サンパウロ州カンピーナス市に住んでいましたが、朝は自宅から100km離れたESPMというサンパウロ市内の大学のマーケティング専攻であったため、毎朝5時のバスに乗り通学していました。

大学で昼食を終えるとまた同じ道のりを引き返し、夜はサンパウロ州立カンピーナス大学(Unicamp)のコンピューターサイエンス学部の3年生としてUnicampに通い遅くまで勉強するという日々を送っていました。

こんなあわただしい日々の中、Unicampの同級生であった、エドゥアルド・ツレルのソフトウェア開発会社、Infosoftでインターンをし始めました。彼は今では Catho社(ブラジルの大手採用ポータルサイト)の最高経営責任者(CEO)です。

当時Infosoftは立ち上げたばかりで、私ともう一人のインターンとオーナーであるエドゥアルドの3人しかいない小さな会社でした。

そんな創業間もないInfosoftで様々な開発に携わりながら充実した日々を送っている中、ある日突然、オーナーのエドゥアルドがInfosoftを去ることになります。ある大企業の共同経営者としてのオファーを受け、別のキャリアステップを進むことを決めたのです。

ショックではありましたが、学生だったエドゥアルドが考えて決めたキャリアですし、まだ大きなん組織でもなかったので仕方ないと思いましたが、エドゥアルドはInfosoftを続けたければ権利をすべて譲るので続けても構わないと申し出ました。

当時既に複数の顧客がいたこともあり、事業自体も非常に興味深いものだったので私たちはその提案を受けて会社を続けることにしました。こうして、いわばプレゼントとして会社を譲り受け、社名をInfosoftからInfosoftwareに変え、私の起業家としてのキャリアが予想もしない形で始まることになりました。

 

2002年:人生で最悪で最高の年

その後Infosoftwareは成長し、2002年にはエンジェル投資家であり、ESPM時代からの友人、ヴィセンチ・シビタロから15万レアル(約500万円)の出資を受けます。

しかし同時に2002年はブラジル経済にとって最悪の年となりました。ルーラ氏がブラジル大統領選に勝つと1ドルは4レアルと大幅なレアル安になり、一気に不況の内が押し寄せました。

さらにひどいことに、私たちの会社があったインキュベーター施設が強盗が襲われコンピューター25台を盗まれるという事件にまで遭遇してしまったのです。

クライアント企業が次々にソフトウェアの開発を取りやめたため、私たちは破産せざるを得ない状況に追い込まれていました。

経済的に厳しい中でいろいろを模索をする中で、ある投資家からInfosoftwareの買収提案を受けました。当時Infosoftwareではモバイル事業、携帯端末Palm向けのソフトウェア開発を進めていて、ある大企業向けのソフトウェア開発の受託をしたがっていた投資家が我々を会社ごと買収してサービスを提供したいと考えていたのです。

ブラジル経済が大不況の中、他に有望な選択肢もなく、その買収提案を受けることでより大きな企業の共同経営者としてキャリアの次のステップに進むべく計画していました。

しかし物事はなかなか思うようにいかないものです。

買収提案をした相手が最終的に資金を提供しないままInfosoftwareを吸収したあげく、2000万円近い旧会社の借金を引き継がされてしまったのです。2000万円と言えば当時のInfosoftwareの1.5年分の収入です。その投資家はあらゆる借入書類の責任者に私の名前を勝手にしていたのです。

理由はどうあれ借入の契約書が自分の名前になってしまっている以上、ブラジルでは簡単に責任を逃れることはできませんし、自己破産もその後のキャリアに大きなマイナスとして一生残ってしまいます。

結果的に負債を引き受け、返済のために働かざるを得ない状況になってしまいました。当時従業員はInfosoftwareでは10〜15人を雇っていましたが、コスト削減のため、私は自宅で働くようになり、従業員も同じく在宅で働く2人だけになり、他のスタッフは全員解雇せざるを得ない状況になってしまいました。

 

「悪徳投資家」にどう対応すべきだったのか?

今振り返ってみると浅はかなことをしてしまったのは明白ですが、若く経験が浅い時に困難な事態に直面すると、プレッシャーもある中で直接的で、素早く、簡単な選択肢を求めようとするものです。

私が直面したそのブラジル人投資家は巨大なガソリンスタンドチェーンを経営していました。大手の石油企業とのソフトウェア開発の大型契約も結んでいたので、実際にその契約に従ってモバイル事業を展開できる能力と資質のあるリソースを探していたわけなので、話の筋は通っています。

また、そのために買収される私たち起業家達は全員、合併後のグループ会社の役員にすると約束していました。

実際、彼は石油企業との契約を本当に締結していました。しかし、問題は、その契約が彼にだけ利益をもたらすもので、結局他の誰にも給与を含む一切の支払いをしないまま、企業の収益が全て彼に渡る構造になっていました。

もちろんこんな詐欺まがいのことをそのまま受け入れるわけにはいきませんでしたが、彼からの買収提案があったときは不況で立場も弱い状況でしたし、彼との約束を信じて、少しでも早く事業を推進すべく、彼との約束が契約書として明文化されるのを待たずに、善意で彼の事業に入り始めてしまいました。

そして、様々な借り入れの契約書が共同代表の私の名前になってしまていたため、企業を清算し営業を終了することすらできない状況になってしまいました。この経験から学んだ大きな教訓は、
・必要なことはしっかりと契約書等の正式な形に残すこと
・商談はこうして正式に約束事を紙にすることの重要性を理解する相手としかしないこと
・事務的なことを面倒くさがらずに焦らずにきちんと行うこと

こういったやり取りで多少送れてしまっても後で取り返しのつかない問題が出るよりははるかに良いでしょう?

ただ、私のケースではまさにはめられた状態で借金返済をするために働かざるを得ない状況になってしまいました。

 

どん底からの復活

私はあまり落ち込んだりしない性格なのですが、この悪徳投資家の事件は人生で初めて意気消沈した出来事です壁のように立ちはだかる大きな問題を日々少しずつ乗り越えていかなければいくのは非常につらいことでしたが、自分を信じて前に進んで行くしかありませんでした。

二人の従業員が諦めずにしかも長い間無休で働き続けてくれたことは大きな支えになりましたし、同じように問題に巻き込まれてしまったヴィセンチともお互いに支えながら日々を過ごしていました。

とにかくこの困難を乗り越えるためには我慢強く、あきらめずに進んで行くしかありませんでした。

Infosoftwareの業務量は大きく減らし、月次の固定契約のあるいくつかのクライアントの業務のみに絞りました。

夜はカンピーナス市近郊のノバ・オデッサ市の大学の夜間部で教鞭を執り、企業向けのモバイル事業のトレーニングを行うことで少しずつ状況を改善させていくことができました。

失望ばかりしていた状態から自分を取り戻し、返済をしながらもなんとか生計もたてられるようになってきました。

もう一つ助けになったのは、科学技術開発審議会(CNPq)のプロジェクトに合格し、奨学金を獲得できたことです。当時、モバイルラーニングは大きなチャンスととらえられており、関連する分野の企業に助成する機関がいたのはありがたいことでした。この奨学金で従業員も何とか養うことができ、2003年にはインターンも何人か雇うことができました。

このように1日15時間、昼も夜も複数の仕事を掛け持ちして働く日々を2年間続けて借金を少しずつ返済していきました。

 

借金返済から成長フェーズへ

このような苦しい日々が続く中、2004年に転機が訪れます。

Brazil Ferroviaという貨物鉄道の大企業と大きな契約を締結し、同社の社内で利用されていた電子メールプラットフォームSendmailをIBMのソフトウェアであるLotus Notesに移行する業務を受注しました。

ソフトフェアの販売、実装及び千人以上の社員に対する研修を含むこのプロジェクトで約500万レアル(約1.8億円)の収益を得ました。当時の私たちにとってはもの凄い金額で、ようやく事業が軌道に乗り始めた感触を得ました。

この収益で300万レアルの借金を完済し、さらに、私にとって3つ目のスタートアップであるモバイルマーケティングに特化したMovileを立ち上げることになるのです。