Conta Azul 創業者 ヴィニシウス・ホヴェダ

in ヴィニシウス・ホヴェダ

Conta Azul創業者 ヴィニシウス・ホヴェダ インタビュー, Part 1

ブラジルの起業家に幼少期から成功までの道のりを語ってもらうブラジル・ベンチャー・キャピタルの独占インタビューシリーズ。

今回はコンタアズウ(ContaAzul)というクラウド経理システムをブラジルで提供する企業を立ち上げたヴィニシウス・ホエダ氏のインタビューです。コンタアズウはブラジルでも盛り上がっているフィンテックの先頭を走るスタートアップで、次のIPOに最も近いと噂されていましたが、このインタビューの直後、2018年の4月3日にはUS1億ドルの資金調達も発表され、もうカウントダウンという段階に入ったようです。

第一部ではヴィニシウスが幼少期きから起業に至るまでのストーリーを語ってくれます。

 

Conta Azul 創業者 ヴィニシウス・ホヴェダ

Conta Azul 創業者 ヴィニシウス・ホヴェダ

ヴィニシウス・ホヴェダ・ゴンサウヴェス:Vinicius Roveda Gonçalves 
コンタ・アズウ社の創業者件CEO。サンタ・カタリーナ州立大学コンピュータサイエンス学部卒業。
それまでは大手のシステム開発会社が大企業向けに個別に開発、販売していたビジネス管理ソフト市場に、シンプルかつ低価格でクラウドベースのソリューションを提供。中小企業経営者のニーズを踏まえたサービスとして圧倒的な支持を集め、ブラジル全土に展開し、大手企業に独占されていた市場で成功を収める。

 

コンタ・アズウ:ContaAzul
コンタアズウは2011年サンタ・カタリーナ州ジョインヴィレにてヴィニシウス・ホヴェダ、ジョゼ・サルダナ、ジョアン・ザラチネの3人で創業。中小企業向けオンラインの経営管理ツールを提供する。2011年にはアメリカ・シリコンバレーに本社を置く500Startupsのアクセラレーションプログラムにブラジル初のスタートアップとして参加。創業6年目にして100%に近い年成長率を誇っており、年内には社員300人、年商30億を超えると予想されている。ブラジルのスタートアップの中で最もIPOに近い企業と目されている。

  

世界最高の市場

ブラジルは本当に大きな国です。また、解決すべき問題に溢れている国でもあります。コンタアズウはブラジルが抱る問題の一つを解決すべく立ち上がりました。その問題とは2千万もの中小企業がマネジメントの問題や事業計画の策定や管理の問題で創業から5年を待たず消えて行くという問題です。

そこで私達は中小企業のオーナーが手の届く価格で、シンプルで使いやすく、素早く会社の状況を整理して管理できるようになるツールをクラウド上で提供しようと考えたのです。2000年末の時点でブラジルの企業のうち、事業計画の策定や管理をしっかりとやっているのは大手企業だけでした。なぜなら、その手のソフトウェアはTotvsの様な大手のソフトウェア開発企業が手掛けたものしかなく、単純にシステムを導入するだけでなく、導入後のメンテナンス等を含めたサービスフィーもランニングでかかるため、とても中小企業にとっては手が出ない商品だったからです。

一方で、私達が目指したのはとにかくできる限りシンプルで使いやすく、研修などを受けずとも見ただけで使い方が分かる様なソフトウェアでしたので、私達はデザインに注力することにしました。これはライセンスフィーを販売した後にランニングのサービスフィーで継続的に収益を上げるという従来のソフトウェア産業の既成概念を壊す新しい試みでした。

しかし、シンプルであることと安価であることを両立した商品を開発するには時間と資金が必要です。今日のコンタアズウにたどり着くまでには本当に多くの間違いを経験してきました。

 

幼少期・大学時代

私はヒオ・グランデ・ド・スウ州のソレダーデという人口2万人の小さな町で育ちました。

私の祖母のオルフィラは小さな商店を経営していました。最初は書店として始めたのですが、洋服や靴、おもちゃ等も扱う雑貨屋のような感じになっていきました。最終的には町の中心的な店にまでなりました。

子供ながらに祖母が商品を綺麗に整理したり、丁寧に接待していた姿を鮮明に覚えています。私は祖母や祖父、曾祖父が毎日の昼食時に日々の仕事について話しているのを聞きながら育ったのです。10歳くらいの頃には夏休みにレジの手伝いもするようになっていました。祖母と働くのはとても楽しい時間でした。その時は考えもしていなかったのですが、こういった環境が将来の自分が進む道を決めたのだと思います。

この頃、すでにパソコンにも興味を持っていました。銀行に勤めていた父が職場である銀行から貰ったものすごく古いパソコンを家に持ってきました。私はマニュアルを読みながらプログラミングを覚え、四六時中パソコンをいじってはいろいろなことを発見しながら一人で学んでいました。

その当時はインターネットはまだなく、BBSがブラジルで始まった頃でした。将来は医者や歯科医になろうかと考えていましたが、ある日友人から「毎日パソコンの前に座ってるのだからコンピュータサイエンスに進めば良いんじゃないか」と言われ、なるほどその通りだと思い、1999年にジョインヴィレにあるサンタ・カタリーナ州立大学コンピュータサイエンス学科に進みました。この大学を選んだのには、二つの理由がありました。私の両親はそれほど裕福ではなかったので、私は自分でお金を稼ぐ必要がありました。サンタ・カタリーナ州立大学は当時では珍しかった夜間コースがあったのです。もう一つの理由はジョインヴィレにはソフトウェアに強い企業が集まっていて、その分野に強い都市として知られていたからです。

 

ビジネスの現場経験

2000年にインターン生としてSoftinという小さな企業に勤めました。ビジネスの現場と大学で学んだ知識との違いを知ることができ、非常に大事な経験になりました。ゼロからのソフトウェア開発や締切のプレッシャーなど、現場でしか感じることの出来ない大変貴重な経験を得ました。

Softin社でインターンをするきっかけとなったのはSoftinの社長がインターン生を大学で募集していたというシンプルなものでした。私の他にも同じ大学から3人の生徒がインターンとしてSoftin社に入社し、同じチームで働きました。その中の一人がジョゼ・カルロス・サルダニャで、その後一緒にコンタ・アズウを立ち上げることになります。当時は知る由もなかったことですが。

Softinに3年間勤めた後はGesplanと言う会社に9ヶ月間勤め、その後、Tecnosystem社に移りました。Tecnosystemは当時合法だったスロットマシーン用のソフトウェア開発しており、私が最も深くテクノロジー関係に携わった場所でもあります。私はマシーンに繋がっているソフトウェア管理を担当すべく、ゼロからチームを作りリードすることも経験しました。

 

MBAの時が来た

この頃からビジネスに興味を持ち始め、MBAを通してビジネスや経営の知識をもっと深く学びたいと感じるようになり、大学卒業後すぐにFGV(Fundação Gestúlio Vargas。ブラジルの私立大学)の大学院に入学しました。私は大学院を通して、仕事で日々関わる管理職としてのスキルを学び考えていました。日常の様々なシチュエーションを通して、私は自分の知識が技術者よりで、もっと計画的なビジョンを養う必要があると感じていたのです。当時働いていた企業の役員クラスとディスカッションしたり、説得する為には彼らと同じ言葉を話し、彼らの見方でビジネスを理解する必要がありました。

会社内で多くの決断がされる中、その理由がわからないのが嫌だったのです。MBAのコースで学んだことは当時働いていた会社の仕組みや構造を理解することに非常に役立つと同時に、徐々に、どうして今会社はこういう状況になっているかという疑問を湧かせることで、従来のマネジメントスタイルを客観的に距離をおいて見られるようになりました。

また、自分を客観的に見て、良いプログラマーではあるがまだ他社に比べて圧倒的に優れているレベルではないこと、一方で自分は人とのコミュニケーション能力が長けていることを気付かせてくれました。会社のホワイトボードに書かれている「ミッション、ビジョン、バリュー」だけで社員が動くとは思っていませんでしたし、企業文化が組織の中で重要ではないと思っている訳ではありませんが、私はもっと直接的にもっとわかりやすく直接的な人間関係やそこから来る組織のあり方というものに強い興味を抱き始めました。その頃、私に大きな影響を与えたのはヒカルド・センレル著作の「あなたはクレイジーだ(ポルトガル語:Você Está Louco)」と言う本です。この本を通して、これまでの型にはまらない、新しいスタイルのマネジメント方法があることを知りました。

 

市場が求めるソリューション

MBA時代、多くの週末は妻の家族と過ごしていました。妻の家族のほとんどは小さな商売を営んでいました。彼らの中で頻繁に話題に上がっていたテーマはビジネスの管理や必要なデータを整理するソフトウェアの必要性でした。そこで少しリサーチしてみたところ、既存のソフトはインストールの仕方や操作方法が難しく、作業中に入力した情報を間違って消してしまうようなことが頻繁にあるような古い型のものしか見つかりませんでした。つまり、市場に出回っているソフトウェアには小さな自営業者のニーズにこたえられるものが全くなかったのです。

ブラジルでは現在でもなんらかの管理ソフトを使っている中小企業はたった22%にすぎません。2000年代の初頭には、エクセルなどの簡単なスプレッドシートを管理しているだけで十分進んだ企業であると言えてしまうほどで、中小企業はITを全く使っていませんでした。先ほどお話した私の妻の家族の中でもスプレッドシートを使っている人ですら一人もいませんでした。

2008年頃には海外の動きに着目し始めました。例えば、ニュージーランドのXERO社は中小企業向けのソフト開発を2年前からスタートしており、クラウド出のソリューション提供を検討していました。現在は大手であるアメリカのIntuit社も同じ様な動向を見せており、ブラジルにも進出してくるのは時間の問題でした。こうした動きを見る中で、私自身がこのエリアをブラジルで切り拓きたいと考え始めました。

 

起業の決断と前途多難な船出

私はまずインターンで一緒だった友人のサルダニャに相談したところ、彼も私のアイディアに賛同し、一緒にスタートアップを立ち上げることになりました。当時サルダニャはパラナ州のクリチバ市に引っ越した直後でしたが、それに関係なく、私はジョインヴィレ、彼はクリチバというリモート環境でプロジェクトを進めました。私達は日中は会社で勤務し、夜にスカイプ会議で後にコンタアズウとなるソリューションについてのプランをディスカッションする日が続きました。

プジェクトは自然な流れで進み、プロジェクト開始から6か月経った時点で最初のクライアントがついたのをきっかけに私は退職して完全にコンタアズウに専念することにしました。私はクリチバのサルダニャに「君はそのまま会社で働いくれ。もしも上手く行かなかったら、君が僕を食わせてくれよ」と言ってTencosystemを退職しました。

その後1年間プロジェクトに専念したのですが、予想外なことにプロジェクトは失敗に終わりました。私達が作ったソリューションはあくまで私達が考えて作ったものでしかなく、クライアントを含めたマーケットの仕組み・構造を理解しないまま商品開発を進めたことが根本的な原因でした。失敗から得るものも多くありましたが、会社は辞めてしまっているし、資金もない。どうすればいいのかと頭を抱え、途方にくれました。